創価学会の教義改正に矛盾はないのか
平成26年11月7日、創価学会は第67回総務会において教義条項の改正を議決した。私は地涌の会の会主として、その改正内容の是非についてずっと考えてきた。
というのは、私も学会ほどではないが、日蓮正宗と法華講には決別ではないが一歩距離を置いた在家中心の新宗派を創設したいと考えてきたからである。
何故かと言えば、私には60年にわたる仏道修行の結果得ることができた絶対的な確信、即ち、釈迦と日蓮大聖人の本当の教えを学び実践する以外には、個人の幸福と世界平和の実現は出来ない、があるからである。
今日、わが地涌の会以外に釈迦と日蓮大聖人の本当の教えを説く宗派はどこにも見当たらない。したがって、地涌の会は永遠に発展していかねばならない。このことに異議ありと思う人あらば、ぜひお会いして対話をしたいものである。
さて、学会の教義条項の改正(?)の内容であるが、何と言っても本尊問題の変更に触れなければならない。
学会は本尊とは学会が受持の対象として認定した本尊であり、謗法の地に有る弘安2年の日蓮大聖人の出世の本懐の御本尊は受持の対象にしない、と言うのである。果たしてこの判断は正しいといえるのであろうか。
第1に学会は創立以来、長年にわたって弘安2年の本門戒壇の大御本尊を絶対的なものと会員に指導してきたが、それは間違っていたので変更します、と言うのであろうか。もしそうであれば会員に対するこれ以上の背信行為はないであろう。
「謗法の地に有る」からと、取って付けたような理由をが述べているが大御本尊はいずこの地にあろうがそのものの功力が変わることはないし評価は変わるものではない。ダイヤモンドはたとえ泥の中にあってもその価値は変わることがないのと同じである。 宗門の汚点を批判することはあっても大御本尊との決別宣言は後世に禍根を残しはしまいか。
第2は弘安2年の大御本尊について日蓮大聖人は「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」と述べておられるが、学会は近年、宗門と別れたことを「魂の独立」ができたと喜んでいる。弘安2年の大御本尊との決別による学会の魂の独立は、大聖人の魂との独立・決別を意味している。果たしてそれでよいのであろうか。
第3に学会の総本部・大聖堂に安置されている御本尊は、日蓮正宗第64世日昇猊下が書写されたものである。
学会は宗門と別れてからは、例えば第67世日顕猊下については前の第66世日達猊下からの相承を受けていないためニセ法主だと批判し、ニセ法主の日顕からバトンタッチした第68世の日如猊下もまたニセ法主だと一刀両断に切り捨てている。
しかし考えてもみよ、日蓮正宗・大石寺の歴代猊下の歴史を見れば第64世日昇猊下にいたるまでの過去においては、何度も法主の血脈相承が途切れたことがある。
となると、学会の総本部・大聖堂に安置された本尊もニセ法主の日昇が書写した本尊ということになるではないか。この矛盾をどう説明されるのであろうか。
学会がこの教義条項の改正を改めないというのであれば解決策は唯一つ、会員が師匠と仰ぐ池田名誉会長書写の本尊を大聖堂に安置し、会員には池田名誉会長が開眼供養した複写本尊を授与すればよいと私は思うのである。それが出来ないというのであればその理由をお聞きしたいものである。
これらの点について地涌の会の理論整備は完ぺきに出来ている。
しげき故に今回はここまでにしておきたい。