有川靖夫の日記・地涌の会のブログ

釈尊と日蓮大聖人の本当の教えを学び実践する会

市川雄一氏のご冥福を祈りつつ過去の秘史を明かすーその①

 公明党元書記長の市川雄一氏が昨年12月亡くなった。私は、市川さんが公明新聞の機関紙局長だった時に社会部の記者として仕事をしていた。

 私は元々は大学を卒業後は創価学会の本部職員になりたくて面接試験を受けた。当時は政教一致丸出しの時代であったから、公明党創価学会の政治部のようなもので、面接担当だった学会の飛田経理部長は私を公明党本部の経理部に配属した。

 そこで私は長田総務局長のもとでしばらくの間仕事をしたが、なぜか機関紙局に人事異動となった。当時、局長の市川さんは学会の参謀室長という要職にあった。日中は党の仕事をし、夜は学会青年部の最高幹部として青木青年部長や福島男子部長などと青年部の育成に専念しておられた。

 参謀室長という役職は戸田会長に仕えた池田大作氏が頂いたもので、学会内部では永遠に空席のものと思われていたのである。その役職を市川氏が池田会長から任命されたのは、全国の参謀の任命を受ける者が参謀バッジを池田会長から授与される儀式の冒頭のことであった。

 その場に私も呼ばれていたので鮮明に覚えている。バッジの授与者は800人ほどであった。静まり返った広宣会館の会場に入ってこられた池田会長は、御本尊の前に座るや否や鐘を三回強く叩いた後、南無妙法蓮華経の題目を三唱したあと、くるりと我々の方に向きを変えると「これから参謀バッジの授与を行います」といって冒頭次のようなことを話した。

 まず、市川雄一氏を呼んで市川雄一氏を参謀室長に任命すると言った後、自らが付けていた金の参謀バッジを外し、そのバッジを市川氏の背広に取り付けたのである。その際、バッジの裏には番号が彫られているとし、番号はゼロ番であることを明かした。ちなみに1番の番号は青木青年部長であり私は確か626番だったと思う。

 なぜ市川氏は永遠の空席と言われた参謀室長に任命され、池田会長が付けていたゼロ番のバッジを付けてもらえたのか。その理由を池田会長はこう述べた。「日本共産党と戦っているのは市川だけだ。参謀室長に値する。理論闘争に負けるようなものは私の弟子ではない」(主旨)また「今後あらゆる選挙戦で負けるようなことがあれば、今日集まった君たち参謀の責任である」(主旨)

 その後「以上、終わり!」と告げるや再び鐘を強く3回叩き題目を三唱しさっと会場を後にされたのである。